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堀江範一の「さくら物語」

諦めの人生から、“さくら色の人生”へ。人との繋がりが、豊かな暮らしを拓く

みなさん、こんにちは。福祉処さくらの堀江範一です。僕はさくらで働く人間ですが、同時にさくらから介護サービスを受ける利用者でもあります。なぜ僕がここで働くようになったか、またさくらではどんなことをしているのか、このページでは、僕なりの「さくら物語」をお伝えします。

サッカー少年の足から力が抜ける。病気の発症

●生い立ち サッカーに明け暮れた少年時代

僕は京都市北区で生まれ、小・中・高と地元の学校に進み、高校卒業後は京都の帯屋や印刷屋で働いていました。そして現在、居宅介護事業所の福祉処さくらで働いています。

子どもの頃は毎日暗くなるまで外で遊ぶ、どちらかというと活発な少年で、小・中学校時代は地元のクラブチームでサッカーに明け暮れていました。この頃はサッカーがすべて。本当に毎日が楽しく、辛い経験も含めて、いいこと悪いこと、いろいろなことを、サッカーを通じて学びました。

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中学3年のとき、サッカーの夏合宿でふくらはぎの部分に違和感を覚えました。力が抜けて走れなくなり、そのまま見学することになったのですが、そのとき、何か普通でない状態に不安を感じました。これが、この病気の初めての症状でした。
そのときは2日ほどで元に戻り、帰宅後病院で診てもらいました。けれどこのときは、ただの疲れだろうと注射を1本打って終わりでした。
その後、何度か同じような症状が出ましたが、また疲れているのかなあと思うだけで、だましだましサッカーを続けていました。そして受験となり、中学でのサッカー生活は終了。すると激しい運動のない日常生活ではとくに問題もなくなり、この症状のことはすっかり忘れてしまいました。

高校入学後、気分も新たにサッカー部に入りました。ところがしばらくすると、また力が抜ける症状が出てきました。
受験で運動不足だったので激しい運動に体がついてこないだけだと思い、今度もまた、だましだましサッカーを続けていました。けれども症状はひどくなるばかりで夏頃になると、練習が終わるともう歩くのも辛くなっていました。
中学のときより少し大きめの病院で診てもらうと、もっと大きな病院で詳しい検査をと、国立病院を紹介されました。訳のわからぬまま行くと、筋肉の病気だと告げられました。そして、「今後治る見込みもなく、将来的には車いす生活を強いられることになるかもしれない」と言われました。
その時点では、将来どのようなことになるかよりも、ただただ「サッカーができなくなる」ということのほうがショックで、その意味で「お先真っ暗や」と衝撃を受けていたのを憶えています。

サッカーはその頃の僕にとってすごく大切なもので、それがなくなるなんて思いもよらないことでした。
小学生の頃からクラブチームに所属し、卒団したら地元の高校へ、そのサッカー部で全国大会に出て、卒業後はクラブチームに戻り、プレーしながら子どもの指導をするという、完璧な「サッカー人生大計画」が自分の中でできあがっていました。そうなることを信じて疑っていなかったため、当時は病気と言われても、状況が即座に理解できなかったのだと思います。

それからはプレーすることができなくなり、サッカー部は辞めることにしました。
サッカーを諦めたことで自分の中から大きなものが抜け落ちたような感じになり、部を辞めてからも引きずってはいましたが、その後はそれなりに楽しい高校生活を送ることができました。しかし、他の目標や、やりたいことも見つけられず、そこは、やっぱり、それなりでしかありませんでした。
そしてもうすぐ卒業という時期になり、病気という現実に初めて直面することになりました。

●やる気だけではどうにもならない「仕事」

卒業後の就職で、どんな仕事をするか、できるのか悩むことになったのです。その頃本当は板前になりたかったのですが、主治医に「立ち仕事は絶対に無理」と強く反対され、諦めてしまいました。
したいことができない、というより、挑戦する前から選択肢がないやる気だけではどうにもならないことがあるのを、身をもって知った瞬間でした。当時は自分次第でなんでもできると思っていた年頃で、何かモヤモヤとしたものが残ることになりました。

結局卒業後は座ってできる、帯屋さんで帯を織る仕事に就きました。しかし、何かモヤモヤとしたものがずっとあり、1年も経たないうちに辞めてしまいました。そこに将来の自分を見ることができなかったというか、今という時間を、ただ浪費しているだけにしか思えなかったのです。

次に、もっと将来に繋がる仕事を探そうとしたのですが、簡単に見つかるわけもなく、結局このときも、座ってできる印刷屋での電算写植の仕事に就きました。
この頃から歩くのが辛くなり、会社の階段が本当に嫌でしょうがなく、階段を登りたくないというのだけが理由で会社に行きたくなくなっていました。そのうちに階段から落ちたり、通勤が辛くなったりで、辞めようかと考えるようになりました。しかし会社から機械を貸してもらえ、家で仕事ができるようになりました。ありがたい、がんばらなければと思ったのですが、しかし、今度はだんだんと腕が上がりにくくなりました。そのうち「どうせ手も上がらなくなり仕事できなくなるのに、なんでこんなことをしているんやろ」と思うようになってしまいました。
こうなるともう全く気力が湧いてこず、そのうち腕も上がらなくなり、また仕事を辞めることになりました。
22歳頃のことです。

●自分の持っているものを “盗られていく”

それからは、もう、家でダラダラと過ごす毎日でした。
そして病気も、ゆっくりとですが確実に進行していき、なんの希望も見いだすことができないでいました。
病気の進行とともに、今までできていたことができなくなるひとつずつ、自分の持っているものを盗られていくという感じでした。
走ること、歩くこと、立ち上がること、寝返りをうつこと、字を書くこと、ほかにももっといろいろ……。
盗られたくないと抵抗するのですが、どうにも、体が言うことを聞きません。これが何度も続くと、「どうせこれもできなくなる、あれもできなくなる」と最初から諦めるようになり、さらに無気力になっていきました。

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振り返ると、この頃が一番キツイ時期でした。
病気はどんどん進行していくのに、治療法もなく、当時は原因すらわかっていない状態だったのです。
将来のことを考えても、なんの希望も見いだせず、何をどうしていいかも全くわからず、イライラというか、モヤモヤというか、いろいろなものが混ざって不安定な心境になっていました。

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